飼い犬のタマが死んで一年半もたつのに、まだ時々、タマのことを思い出す。つれあいはタマがいた間、わが家は、犬を中心に回っていたといいきる。本当にそうだったかもしれない。わたしはタマを飼うまでは、犬なんか嫌いだった。暑いとハアハアよだれを垂らして汚らしいし、鎖に繋がれてご主人にかしづく姿も人に媚びてるようで潔く思わなかった。
タマを飼い始めたのは。裏の保育園に空き巣が入ったからだ。うちは門構えだけ大げさだから、落語にでてくるような粗忽な泥棒が、お金持ちと勘違いして押し入りでもしたら物騒だ。番犬でも飼ったらどうかとすすめてくれる人がいた。
タマは私の母親が動物病院の掲示板のはりがみで見つけてきた。六匹生まれた赤ちゃんの嫁ぎ先の決まらない最後の1匹で、ダンボール色の雑種だった。母親の名前は忘れたが、父親の名前は梅吉といった。飼い主へ菓子折りと、母犬へのドッグフードだけでもらわれてきた。家に連れてきた日、タマは母親を恋しがって一晩中ないた。当時、仕事場にしていた土間でゲージに入れて飼う予定だったが、独り寝が寂しいのかゲージを猿のようによじのぼって、朝見に行くと仕事場のパソコンモニターの上で震えていた。その姿があまりに哀れを誘って、翌日からわたしが添い寝することになった。
タマはまたたく間にわが家のアイドルになった。あの犬と一緒に写真を撮ってと言われて、元宝塚の安奈淳さんの膝に抱かれてる写真もある。仕事で打ち合わせにくるお客も、必ずタマへのおやつを持参してきた。番組の取材できた板東英二や山口もえと一緒に写した記念写真にもそのまんなかにタマは座っている。
ただし飼い方が悪かったのか、番犬の用はまったくなさず、臆病で弱虫で、来るお客、来るお客、だれにでも愛嬌をふりまく愛玩犬になった。タマはまりのように跳ね回る、元気いっぱいの犬だったが、歳を重ねるごとに、人間への依存心が強くなり、ストーカーのようにわたしの後にへばりついてきた。
食事をするときはわたしのテーブルの隣の床。わたしが仕事場にいるときは、デスクの下で丸くなっていた。 仕事で家をでるときは門まで見送ってくれ、わたしが帰ってくるとクルマの音を聞きわけて尻尾を振って出迎えにきた。運動不足が原因のわたしの腰痛もいつのまにか、タマがおともをしてくれた毎日1時間の散歩で解消していた。
そんなタマがうちに来て14年、散歩に出ても疲れるのかすぐ帰りたがるようになった。半年ほどまえからタマは人間嫌いになって、あんまり人間の近くに寄ってこなくなった。遠からぬ死を察知してこれ以上、溺愛されるとわたしたちが別れるのが辛くなるのを案じたのか、それともタマ自身がわたしたちと別れるのが辛かったのか。それはタマのわたしたちへのやさしさだったといまではよくわかる。
こころある人は忠告してくれた。そんなに犬をべったり飼うことは、人間にとっても、犬にとってもよくないことだよ。人間はペットロス症候群になるし、犬は少しの時間、お留守番するのも辛くなってしまう。犬は犬なんだから、犬らしく飼うのがいい。言われることは頭ではよく理解できた。
長年にわたる不健康な食事を与え続けたせいだったのか、死の一年ほど前からタマは獣医さんから重度の糖尿病だと診断され、要介護犬になった。このままでは1ヶ月もたないという獣医さんの見立てに、わたしたち夫婦は恐れおののいた。犬は犬らしく最後をみとってやるのがいい、犬に延命治療などさせるものではない。知人は忠告してくれた。タマにとっては迷惑な話だったかもしれないが、意気地のないわたしたちはタマと別れる日がくるのが辛くて辛くて、朝晩、ごめんごめんと謝りながら、タマが嫌がるインシュリン注射を打ち続けた。
わたしたちの未練につきあって、タマは1ヶ月の寿命の宣告から一年以上も延命してくれた。
しかしついに右足が麻痺して散歩にいけなくなり、とうとう左足も麻痺して寝たきりになり、これ以上延命しても治る見込みはないし安楽死という選択を獣医さんはすすめた。それでもわたしたちはタマが家にいないという現実を受け入れられず、安楽死を拒否した。3日間の入院から帰ってくると、もう寿命は一週間ないだろう、病院では餌を与えてもなにも食べなかったが、もしなにか食べるんだったら食事制限せずもうなにを与えてもいい、と獣医さんは言った。つれあいの顔が輝いた。その日、スーパーで買ってきたのは、きれいに霜の降った飛騨牛のバラ肉だった。わたしは東京土産のタントマリーのカマンベールケーキを与えると半分くらいぺろりと平らげてくれた。
人間用にと頂いたものだったが、中国科学院のジンフェン教授にもらったNS乳酸菌をワラをもつかむ気持ちで、嫌がっていた療養食にスプレーしてみた。するとからだが本能的にバクテリアを求めてるのか食べなかった療養食を食べてくれた。飲み水に混ぜると不自由な首を必死で伸ばして飲もうとする。まだ必死に生きようとする意思がある、それだけがわたしたちの一条の光だった。
余命1週間と言われた日からひと月、つれあいとわたしが交代でNS乳酸菌を使って24時間介護した。獣医さんは足やしっぽの先が糖尿病の影響で壊死をしはじめてるのに、悪臭がまったくしないのは不思議だと驚いた。いま思うとそれもNS乳酸菌の効用だったのだろう。しかし、老犬だったし、症状もすすみすぎていて手遅れだった。
最後の日は苦しそうだったが、休日にも関わらず、獣医さんは一日3回も往診に来てくれて、最後泣きながらタマをおくってくれた。
人間の姿が見えないと寂しがったタマだから、居間からいつでも見える場所に埋めてやることにした。草むしりのおばさんに踏まれないように、墓標に一本の白侘助を植えた。
その年の秋、最初に結んだ一輪を小さな花器に浮かべて、ゆかりのある人たちで囲んでささやかな宴をもうけた。
さよならタマ。犬嫌いだったわたしをここまで犬好きにさせてくれてありがとう。こんど犬を飼うときは、もう少しはいい飼い主になれる気がする。
もっとはやくNS乳酸菌を飲ませてれば、あんな死に方させずにすんだのに、とつれあいはいまも言う。14年と3ヶ月、お前といる時間、わたしたちはほんとに幸せだった。キミみたいな不幸な犬を少なくするために、NS乳酸菌ペットミストが役立つことをいまこころから願っている。