江戸の昔、京都伏見に美濃屋という薩摩藩主をお迎えできるほどのたいへん格式の高い料亭がありました。この家の主人の太郎左衛門が明暦年間のある日、薩摩藩主島津大隈守さまをお迎えした折り、客膳のひと品に天草を使った煮こごり料理を供しました。
一夜明けてその日は京都特有のよく乾燥して凍みた朝で、土間に落ちた料理の残りが天然の白い干物に変わっていました。長右衛門は天然のフリーズドライされた煮こごりに妙にひかれて、これをふたたび煮直したところ海草臭のまったくしない、これまで以上においしいところてんができたといいます。
清冽な味覚にして、体内の老廃物をのぞく美濃屋のところてんの干物は京で評判となり、日本の国にインゲン豆を持ち込んだことでも高名な万福寺の高僧隠元禅師の僧膳にのぼる栄に浴しました。
隠元禅師をして「仏家の食として清浄これに勝るものはない」と賞嘆され、禅師により寒天と命名されたと伝えられています。これが寒天のはじまりなのです。
この寒天のはじまりとなった、薩摩藩主を供する京の美濃屋という料亭、残念なことに詳しい資料は現存していませんが、美濃屋という屋号からして、美濃の国(いまの岐阜県)に縁が深かった人ではないかと想像がひろがります。
中山道美濃十六宿で参勤交代の大名をお迎えする本陣であった、わたしどもがいま寒天を扱っているのも、悠久の歳月をへだてた縁の不思議を感ぜずにはいられません。